塩井 私、この第三回東京湾イベントの実行委員長、塩井豊と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
今日は蒸し暑い中、また夏休み初日というお忙しいなか、お越しいただきありがとうございます。東京湾イベントも今年で第三回を迎えることができました。毎年一回繰り返しており、第一回は横須賀、第二回は船橋、第三回はこの横浜で開催することになりました。
みなさんご承知のことと思いますが、東京湾イベントは、知る食べる考えるの三部門から一つのイベントを形成しております。東京湾すなわち「江戸前の健康な海を未来に」という思いを、「次代を担う人に、どういう姿の東京湾を残していったらいいか」という思いをいだいた有志が集まって、東京湾海洋研究会という企画集団を作っています。この研究会が各開催地で、実行委員会形式でボランティアを募って開催しています。
第三回目の横浜においては、すでに、「食べる」「知る」というふたつのことが終わりました。
「食べる」については、横浜で唯一残されている漁業の拠点、金沢区柴町、小柴の漁師さんたちのご協力を得まして、地魚を食べる、口から、味で東京湾をよく知ろうという企画を6月23日に行いました。とてもおいしいお料理をいただくことができました。
また、昨日7月19日に「知る」ということで、目と耳とで東京湾を知ってみようと、船をチャーターして、このそばの大桟橋から横浜の水際線をくまなく見てきました。後ほどビデオで、昨日どういうことをしたかをご紹介いたします。横須賀の軍港から猿島の方へ航路をとりまして、一日暑い中私たちの地元の海の海岸線がどうなっているか、改めて海から陸を見てみました。もちろん水先案内人、それから海洋研究者、海の専門家の方たちに講師をしていただきまして、学習をしてまいりました。
そして今日ここで「考える」ということで、「食べる」「知る」という経験をふまえた上で、語り部というパネリストの方たち、コーディネーターの方、それからテーマ講演をなさる先生、それぞれご専門で、ご研究をなさっている先生方、そして実践家として海で活躍していらっしゃる方、それから海への思いを強くお持ちの諸氏、大勢の方が今日はご協力してくださいました。それから第三回東京湾イベントを開催するにあたって、環境庁水質保全局をはじめ、多くの湾岸の自治体のご協力、ご支援、その他の諸団体の方たちからも、いろいろご支援いただいてこうして開催することができました。この席を借りてお礼を申し上げます。
今日は、海の日、初めて休日になった日です。海の記念日そのものはずっとあったのですが、国民の祭日になった、ひとつの区切りというときに、私たちのシンポジウムを開催できたことをうれしく思っています。こういう日を生かして、次代にどういう東京湾を引き継いでいったらいいのか、皆様と一緒に考えてみたいと思います。わずかな時間ですが、ごゆっくりお過ごしいただきたいと思います。私の挨拶は、これで終わりにいたします。
さてこれから、第三回東京湾イベントのシンポジウムを開催いたします。開催に当たって、司会を中村浩美、須賀潮美の方に移します。よろしくお願いいたします。
中村、須賀 昨日は楽しい東京湾巡りだったようですが、今日はシンポジウムということで始めさせていただきたいと思います。司会進行は、科学ジャーナリストの私、中村浩美でございます。飛行機や宇宙だけではなく、海にも大いに関心を持っておりまして、東京湾シンポジウムを3年前から親交させていただいております。パートナーは、須賀潮美と申します。ニュースステーションで、水中からレポートをしておりまして、東京湾とのつきあいももう10年を越えました。世界の海をいろいろと潜っておりますが、東京湾は一番愛着のある海です。どうぞ、よろしくお願いします。
それでは今日はまず、基調講演をお聞きいただきたいと思います。東京大学の名誉教授で、現在は放送大学の教授をつとめていらっしゃいます、濱田隆士先生に東京湾の誕生から現在に至る歴史的に見た、東京湾というものを基調講演でお願いする事になっております。
濱田先生よろしくお願いします。
第一部 テーマ講演「変わり行く東京湾と人のかかわり」 濱田隆士
はじめに
昨日の映像(1996年7月19日に行われた東京湾船上見学会)で海の表情というのでしょうか、出発したところが茶色で、猿島はとてもきれいな水というのがありました。最初の挨拶にもありましたが、「海の記念日」が国民の祝日に指定されて最初の日です。「海の記念日」がなぜ出来たかご存じでしょうか。たぶん、今日の新聞にも出ていると思いますが、この横浜に関係があるのです。明治天皇が北海道に旅行された後、船に乗られてこの横浜に帰ってこられたという日を記念して7月20日となったんです。これを国民の祝日として、もっと広く知っていただこうという計画だと思うんですが、「海の記念日」が休日化したわけです。
さて、こうした20日を挟みまして、海にちなんだ色々なイベントが企画されています。国際シンポジウムあり、地域の住民の方々の集まりあり、様々ですけど、私もいくつか関係してみまして、ふと思ったことは、大学で講義していてもそうなんですけど、ひとりひとりが海に対するイメージが大変違っているということです。海の専門家はすっかり海に溶け込んでいる、と言いますか、のめり込んでいますから、自分の専門にしているところが海だとついつい思って話を進めますし、海水浴に行ったはずなのに、小さいお子さんが「大磯に行った」と喜んで帰ってきたから、「いい海だったでしょ」と言ったら、プールだった。つまり、海水浴はプールだという印象が子供に植え付けられてしまう、非常に幅のある時代です。
当然のことですが、海には歴史がありまして、その意味でもまた違った顔がかつてあった。そしてこれから変わっていくということがありますので、今日はこの日を記念しまして、せっかくお招きいただきました第三回東京湾イベントということで、海という立場で海を眺めたら一体どうなるかということを手短に話をさせていただくつもりです。お手許に第三回東京湾イベントというプログラムがありますが、その中に挟み込みで一枚の要旨と書いた原稿用紙と四枚の地図(地図A・地図B)がありますので、これをお手許にご覧になりながら話を聞いていただければと思います。
東京湾は川の出口
実は東京湾というのは、非常に長い歴史が、あるいは東京湾といつから呼んでいいかは定義によりけりなんですが、東京という非常に現代的な都市の名前をとった湾にしたのは当然新しいことで、東京がない時代にも東京湾の前身があったわけです。
それは、広く言えば、関東盆地と言っていいかと思いますけど、100万年ほど昔からここは広く海に覆われていたところでありまして、今の成田空港ができているところ、あるいは千葉県のほとんどの部分はすべて海中にあったわけです。つまり関東平野ができる前の関東盆地は海であったわけです。しかもある時期、かなり長い間ですが、冷たい水が洗っていました。ですから、その地層に含まれている昔の東京湾、もう少し正確に言うと、昔の関東平野をつくっていた関東湾、関東の大きな広い浅い海には寒い地域の貝が卓越しています。暖かい貝が入ってくるのはかなり後なんですね。という長い歴史があるのですが、それが形を成してくるのは、10万年、20万年の時代を経て、東京湾らしくなってきます。
ということは、関東地方全体の湾が小さくなって東京湾に集中してくるという形を思い浮かべてください。言い換えると、今の東京湾は関東盆地の最後の形というのでしょうか。これから未来がありますが、現在としては最終的にこうなった。だんだんと縮小してきたというわけです。その他にいくつかの残りが、霞が浦とか、いろんな湖があちこちに残っていますが、それは全部海から限られて内陸の浅い湖と化した部分です。東京湾はその点最後まで海とつながっています。ご承知のように、東京湾には現在、多摩川とか、江戸川とか、荒川とか、いろんな川が流れ込んでいますけれど、川の出口として最後まで海とつながっていたという歴史をまず頭の中に、描いていただきたいと思うわけです。
東京湾は先ほど映像にもありましたし、お話にもありましたように、内海と外海と言うのでしょうか、内湾と外湾という二つのパートに分かれてしまいます。つまり横須賀あたりと千葉県側では富津岬を境にして、南側が開かれた、つまり外洋に面した外湾といい、内側を内湾と言っているわけですね。ふつう話題にあがってくるのは、特に汚れたとか、汚いとか魚がいなくなった、いや回復したとなかなかにぎやかな話題を持っているのが内湾側です。そして埋立地も当然のことながら、そこに集中しているわけです。
東京湾の地形
過去から話したいのですが、現在の地形が過去とどう関わっているかをご理解いただくために、挟み込みしました四つの地図の下の二枚(地図B)を比較していただきたいのですが、これは同じことを書いてありますが、ひとつは、海岸の埋立地についてマークをしたものであり、国土庁(1986年)のものです。そしてもう一方は、その地形と同じ地形図の中に、水を取り去った場合の海底の地形をを入れてあります。
実は皆さんにお話をしなければならない海と言うのは、あくまで水あっての海で、水がなければ当然陸になるのです。海と陸の境はと言うと、いまさらそんな馬鹿なことを聞く奴があるかとお思いかもしれませんけど実は、意外にやっかいな問題で、刻々と変わっている。それは潮の満ち引きで変わるというだけでなくて、ちょっと長い時間、地球の歴史の中では短いのですが、100万年とか、数万年とかいう時間を見てみますと、意外や意外、この海と陸との接点というのは移動をしています。水平移動というよりは、広がりが違うということでしょうか。
例えば、この東京湾は干上がったことはありませんけど、完全に水没してしまって、全体が水になったこともありました。その当時はずっと関東地方一帯が、100万年昔でなくても、海だった時代があります。それは後ほどもう一度触れます。さて、この東京湾の地形の特徴ですが、右側を見ますと15から20メートル平均で、きわめてなだらかな地形、多少のデコボコはありますが、それにしても浅いのですけど、先ほどの猿島のあたり、富津岬から南の方から突然谷地形ができていまして、谷底と書いてありますが、「古東京川」という谷ができています。これは見た目ではわかりませんで、船が上を行き来していますけど、たとえば伊豆大島から帰ってきますと、途中で船が大きく左へ振って、ここではゆっくりとスピードを落として、すれ違いを確認しながらいくという、そういう場所ですけど、ここからが外湾になるわけです。この外湾の海の底というのは、なんといきなり50メートルからどんと下がった所がありまして、この落差が数十メートルあるわけです。これを、ある研究者は東京海谷(かいこく)といい、これは海の中で潮の流れが速いからできた谷ではなくて、実は陸上にあったとき川がつくった地形です。
それじゃあ東京湾はその時どうだったかということですが、おそらくその時東京湾が一番小さくなった時代だと思いますが、先ほど申しました三つも、四つもの川が合流して一本の川になって、三浦半島と房総半島の間を深く谷を刻みながら、ちょうど今の養老渓谷のような感じでしょうか、もっと切り立った崖をつくって外洋に流れていた。関東盆地全体は窪んでいますから、そうすると南の縁がこう盛り上がっていたわけで、その盛り上がっているバリアーみたいな、壁みたいな所を切って進む川というのは、これは皆さんもご存知でしょうが、先行河川といいまして、平らな時から川が流れていた。それが南の方が隆起してくる。その隆起の速度よりやや速く、それに応じて谷を刻んでいくという。隆起をしながら谷ができてきますのでその地帯だけが峡谷をつくる。そういう地帯になるのです。だから三浦半島と房総半島は、これは関東地震の時も証明されていますが、ガンガンと大地震のたびに隆起する地帯なんですね。そういうことが、歴史の中で何回も繰りかえされながら、この東京湾をつくってきたわけで、ちょうどこの東京湾の入り口は、そういう隆起帯と内側の盆地の境目にあたる、いわばそこに大きな自然の堤防があったわけで、それを切り刻んだ形で東京湾が形成されたという極めて変わった形であります。ですから現在の地形で水が溜まっている分で奥深い湾ですから、これをひとつの東京湾と呼ぶのは、成り立ちから言うと、これは複合湾というものだということをご理解いただきたいと思います。
それで、この深い崖と川ができたのがだいたい5万年程度昔の最終氷期、第4期というのは大氷河期ですが、五回ほどあります最後のウルブ氷期というその氷期に海水準が下がるわけですね。つまり極地方に氷がいっぱいできますから、海水が減ってその分全体の海水準が低くなる。その時にだいたい50メートル位、今の水面から下がってしまった。従って川はその海へむけて滝を作ったとは言いませんが、かなりの速さで流れたに違いありません。その証拠にこの東京海谷の底をドレジというのですが機械で底をさらいますと、石ころばかりゴロゴロ出てくるんですね。その石ころを調べますと、立川の西の小仏トンネル、中央線が通っている谷ですね。それとか関東平野の奥の長瀞地方の岩石とか、そういう所から運ばれてきた丸石がいっぱい入っています。ということはこれは昔の東京湾の前身というのでしょうか。東京湾を含めて、関東盆地が海の底にあった時からずっと河川の出口にあたっていたという、もうひとつの出口は当然ですけど、銚子の方へ抜けていますね。これはまたまた別のひとつの出口を持っていますが、不思議なことにここもまた隆起地帯であるということで、この関東盆地の出口というものはいずれも隆起帯、隆起していく所を刻みながら流れていったという面白い、地球の歴史の一部を占めています。
縄文時代
さて、突然時代が若くなりますが、今は氷河期の最後で水が下がった時代を申しましたけど、1万年から6千年前位というのが、ちょうど縄文時代と言います。
最近、いろいろと遺跡の発掘が進んで、ずいぶん縄文時代というのが見直されてきました。例えば、農業は弥生時代からという定説が壊れました。そして稲が縄文時代からあったということですが、しかし、依然として縄文時代は狩猟、採集の生活をしていたことも確かで、定着よりは、移動していたと言われるのですが、どうも遺跡を眺めてみますと、定着型もこの頃にかなり進んでいたこともわかってきます。
例えばこの千葉の台地あたり、あるいは神奈川の隆起した洞窟の中には、縄文遺跡がたくさんありますが、みんな漁業文化なんですね。なかには鯨を捕ったり、まぐろを捕ったりというそれが骨になって残っています。そして面白いことには、この時代は海水準が高かった。
今から1万年から6千年前にかけての縄文前期という時代は、非常に高い水準にありまして、先ほどの映像で横須賀のところにちょっと写りました、夏島という、これは今は丘になっていますけど、夏島というところは、かつて軍事基地だったから立ち入り禁止だったんですけど、ここに縄文前期の早期の、遺跡がありまして、夏島土器という名前まで付けられた典型的な所なんですが、そこにちゃんと海の歴史がありまして、ここが1万年ということがわかっていまして、すでに1万年前に縄文人が、海辺でしきりに生活を楽しんでいた様子がわかります。
それでちょうどその向かい側にあたります房総半島の館山周辺にはたんぼが広がっていますが、たんぼの一番奥の、現在の海水から20メートル位の高さの所に、たんぼがずっと広がっていますが、そのたんぼの山裾が交わるあたりの所に、ズラズラと並んで造礁性珊瑚、ちょうど今で言うと、沖縄の白保に相当するような珊瑚がいっぱい生えていた後が、たんぼの下にあります。これが有名な沼珊瑚層と言います。「ぬま」は、地名でありまして沼に生えていたという意味ではありませんが、そういうものが見つかっている。ということは、この東京湾の外湾はまったくその頃は、オープンな外海に通じていまして、しかもその黒潮にまともに、本流はもう少し南を通るわけですが、分流が流れ込んできて、そこに立派な珊瑚群落をつくっていた。その時の水位は現在から比べて、なんと35メートル位高い所にあるということが分かりました。
ということは、1万年前は現在の地形から言うと房総付近です。もっと湾の奥は違うのですが、有楽町付近でほとんどゼロ位ですけど、今の房総半島は、それ以来35メートル位隆起したことになる。つまり、隆起地帯なのでそういう証拠があります。ということは、海水準は氷河期と間氷期、あるいは温暖期という交互に来る地球の歴史の寒暖の差によって上がったり、下がったりする。その変調をさらに強めるのか薄めるのか分かりませんが、現在言われている地球温暖化による海水面上昇ということが加わってきて、もし今沈降期に入っていれば、それを越えて上昇するのか、あるいは沈降期が速くてあまり海水面が上がらなくて済むのか、あるいは海面が上がっていくところへさらに、二酸化炭素で海水面が上がってくるのか、そこをしっかりと見極めなけれがいけない。つまり出した二酸化炭素の量じゃなくて、地殻変動の動きもそこに加えて考える必要があるとういうのが最近の見解です。
地殻変動
もし、全体の海面がどんどん上昇する時期になって、しかも地盤が沈下していくような時期に重なりますと、両方でプラスプラスになりますから、両方で、マイナスとマイナスというのでしょうか、なりますからどんどん水が上がってきて、今のランドマークあたりも下の方は水びたしと、これは大変立派な魚礁になると思いますが、上の方はホエール・ウオッチングの場所ということで、通うのは全部ボートという時代も本当にくるかもしれない。そう早いことではありませんけど、計算によりますと、一番早いと100年たったらそうなると言いますから、我々の人生の範囲ということですよね。
まあ、僕はあと100年はちょっと無理かと思いますけど、少なくともここにいらっしゃるご家族の方々の何代目かはその光景を楽しむというか、悩むということになると思います。
さて、そういう地質時代とGとの関わりで、海が行き来するわけですけど、さきほどの沼珊瑚層が発達していた時代というのは当然海が広がっていましたから、この東京湾は今の形ではありません。ぐっと広がっていて、一番奥はどこまで行っていたかというと、群馬県前橋の近くまで海が入っていました。その証拠にその途中にあります千葉、埼玉、神奈川の台地の上には立派に縄文時代の遺跡がありまして、千葉県では遺跡の中に生えている珊瑚を採集しまして、それを焼いて、珊瑚を焼きますと石灰ができます。そしてそれをつぶして壁塗りや、いろんなものを塗る時に使った漆喰型のものなど、そういう石灰に使ったという加工の歴史まであるということですから、縄文時代というのは意外に高等な技術があって、定住民族というにはまだ早いかもしれませんけど、従来考えられていた以上に高等な文明であったと考えられます。
そういう時代を経てきますが、その時東京湾の今の中心、というかどこが中心かは言いにくいのですが、東京湾という名前がついたということを仮に重視しますと、東京の中心、有楽町あたりを考えますと、あの付近に、映画にもなりましたけど、ビル街を建てる時に地下を工事する、あるいは地下鉄を掘る時に地下を掘るんです。そこでいっぱい貝がでてきました。その貝はいずれも暖かい海の貝でした。
つまりそれは6千年前から1万年前の貝がものすごくたくさんあった。実に海の幸豊かな所だったわけですが、それに混じって人骨まで入ってきた。つまり縄文時代の遺骨が流れ込んでいた。お嬢さんの遺体だったようですが、有楽町人という名前がついて貴重な資料になっていますが、ひょっとすると泳ぎに行って溺れた人かもしれません。その辺は由来がわかりませんけど、ともかく東京湾の歴史は、そういう暖かい海の歴史も、冷たい海が全体をつくった後に一時的に入って来ているということです。
ところが、今から2千年前の頃、今度は小氷期という少し寒い時代が来ます。その時にできた地形というのが、今の山の手と下町の境をなす崖地形なんです。その時代に、要するに海の水が下がりますから、水流が激しくなる、谷を刻んで、奥へ奥へと進んでいく。という形をとりまして、山手線を通ってみますと、地下鉄が地上を通っていたり、いろんなことがありますが、お茶の水の谷ですとか大路の谷だとか、そういうことができるわけですけど。中野区の江古田の谷という所を少し掘りますと、なんと針葉樹の群落があったとういうことが分かります。これは天然林ですから、これはかなり寒い雰囲気を持っていまして、もちろん高山地帯とは違うのですけど、ういう東京湾の一番奥の姿もあったという、そういう寒暖の歴史をデコボコを繰り返しながら、現在の地形に近づいてくるのです。当然その頃は、まだ下町とか山の手とか、新しい人の住みかに関わる名前はなかったのですが、東京湾はその度に変貌をとげてきました。
江戸時代から現在へ
そして、遂に東京が江戸という時代を仲介にして明治から現代につながっていく、つまり日本の政治的な中心都市として発達していくわけですが、これは歴史でもどこでも言われていることですが、人口集中が極めて急速に広がるわけです。
ちなみに、関東平野はその時干上がっています。そして住居に適した平らな土地と、少し高まりのある所があるために、なかなかいい眺めであったり、海と近くて便利であったり、そういう水路をたくさん持った、いわば、水の都市「東京」の前の「江戸」が登場するわけです。江戸というのは、そもそも今の言葉で言うと、ウオーターフロントでありまして、もっとも縄文時代の遺跡だってウオーターフロントなんですが、少しモダンに言えば、都市文化として形成されていく途中のウオーターフロントは江戸に始まるのです。ですから、江戸前の寿司ネタが東京湾でたくさん捕れる。そしてそれを賞味して今回のイベントの中でも食べてみようという試み、それどころか、もう目黒のサンマどころか、あるいは江戸前のお寿司のネタがたくさんある、ハゼもたくさん捕れたという時代が本当にあったんですね。
そういう時代から現在まで、一気加勢にというと変ですが、大変に急速な勢いで東京湾が人為的に埋め立てられていくわけです。
それまでは、それぞれの河川の流れ込みによって、時に大洪水を、まあ渇水があったかは知りませんけど、たびたび大洪水を起こしていたわけです。しかしこの大洪水という言い方は極めて人的な発想と言うのでしょうか、人が住んでいて迷惑を被るから大洪水と言いますが、自然現象の中では明らかに、川の作用として山で土を削り、それを強い水流が土砂を運び、そして海岸に持ってきて埋め立てていくという、平野形成のごくごく自然な、当たり前の作用です。
それを人が住むようになって、人が困るからといって「大洪水」と嫌うわけですけど、ここはぐっと視点を変えて考えますと、人があまりにも人っぽい発想で自然を眺めてしまって、敵対関係を勝手につくってしまう、これは現在の地球環境問題を考える上でも、根本的に反省すべき点だと思うのですが、地球側の、自然側の立場から見れば、ごくごく当たり前のことが起こっていたわけですね。
そうして東京湾が自然に出来てきて、埋め立てながら平野を形成してきた。そしてその平野は、武蔵野という広大な緑の林に包まれていた。この頃はおそらく本当に魚がおいしかったでしょうね。
ご存じのように、「魚付き林」という言葉がしきりに言われます。北海道では今、回復に一生懸命です。秋田でもそう言われています。真鶴岬ではその、「魚付き林」というのを正式に立て札を建てて、一生懸命涵養しようとしています。
これは海というもの、そして海の幸というものが、陸上の地形や植生に大きく支配されている。つまり海というものは、陸と一体化して考えなければならないという、そういう自然条件を見事に反映しているわけです。
東京の経済発展
では、東京はどうなったか。当然のことながら緑がどんどん切り払われていきました。いくら緑地といって公園を残したところで追いつくものではありません。そして最後に東京はコンクリートジャングル化するわけですけど、その前の見事な緑の林はどうして消えたかというと、これは鉄道網の発達でした。
鉄道の枕木、このごろはコンクリートです。しかし昔はすべてクヌギとかブナとかそういう関東一円に生えていた素晴らしい、しかも何十年木、何百年木という素晴らしく大きいもので、その一本からひとつの枕木をつくって、日本全国に敷き並べたわけですから、あの長さが80センチ位ですか。その長さをとって、日本全国に単線で、復線で、そして復復線で並べたら、どれだけの林が、どれだけの木が切られたかということがおわかりだと思います。ちょうどヨーロッパが放牧によって緑がすっかり砂漠化してしまって、サハラ砂漠がそのためにも出来たと言われるくらいの、文明の発達の似たような経過が、この暖かく穏やかな東京圏にもあったのです。それを経て東京ができていくのですが、これは交通網が発達したということは、輸送が効くということで、少々海のものが捕れなくても、山のものが食えなくても、東京に住めるという、これまた非自然的な反自然的な環境ができてしまった。
そして洪水を防ぐ意味で川は護岸され、暗渠になり、排水調節と称して水路が切り刻まれ、そして全てコンクリートペイルされました。コンクリートジャングルと言って、スカイライン、我々の見ている天と地の境が山もなく緑もなくなったのがこの東京の風景です。
かつて富士見坂と呼ばれる地形は東京にたくさんありました。とても眺めの良いところで、特に冬の季節はとてもきれいな富士山が眺められたはずです。今は高いタワーに登って見るしかめったに見られず、庶民の生活からはだんだんそういうものが限られてくる。それは、コンクリートジャングル化した都会には、ヒートアイランドができます。今日のような蒸し暑い日は、この部屋の冷房もなかなか効かないように、コンクリートの建物、道路は熱を蓄えてしまう。夜もその熱を放熱してくれない。そして、その暖かい空気が都会の上にできる。これがヒートアイランドです。すると、煙が滞留して、例のスモッグができます。ということで、羽田から飛び立つ度に、いつも写真を撮ろうと思ってのぞいて、ああと思うのですが、工業地帯からだけの煙ではなく、自動車や生活の煙がたなびいて、天と地の差と言うほど、上と下が全く違って、カラー写真に残ります。今でもそれが続いているわけですね。時には、環八雲といって、環状八号線の上だけに雲が発生している。普通なら、天然現象としての雲の発生が、人為的な道路の上で起こるといったことまで起きてきました。
これが現在の東京周辺の状況であり、そしてその中に、東京湾が位置するようになったわけです。
「湾岸埋め立て」と言う言葉は、経済発展期には大変重要な要素でした。つまり、増えていく人口を何とか押さえ込んで、と言うよりは、発展させる意味で招き込んで、土地がなくなったら海へ海へと進出していく。海はいろんな認識のされ方をすると、冒頭で申しましたが、どうしても昔から「海は広いな大きいな」という単純で、とてもきれいに感じる言葉が、行政の立場や埋め立てする側に使われて、どんどん埋め立てをして行ったということになります。この埋め立ては、その時点としては、湾を汚さないという手法から、垂直護岸が採用されました。つまり、箱を置いてそこへゴミを入れて、そしてその上に建物を建てるという工法をとってきましたが、そこで大きな影響を受けたのが海水浴場、潮干狩りの場が、明治から戦前そして昭和50年代以降比べると、内湾側(外湾はレジャー施設など別の要素での移り変わりがありますので、それを除いて内湾だけで見ますと)が今工事で親水化護岸とか人工潮だまりなどがありますが、その前に本当に自然にごく当たり前に海と接することができた東京湾がまだ戦前にはあったのです。
それがあっと言う間に、昭和50年代以降、そして今では、人工的にちょっとしか残っていない。それ故に三番瀬などが如何に貴重か叫ばれるという時代になってしまった。明らかに東京湾は人と生活と密接な関係を持ちながら、しかし海と人との触れあいについては遠ざかってきたという皮肉な現状を生んできたのです。
東京湾の横に住みながら、東京湾の上にいながら、水と接したことがないという。これは日本の、そして世界の現代化のひとつの特徴かもしれません。
話が少しそれますけど、3年前に愛知県の蒲郡という、蒲鉾の大変おいしい、漁の盛んなところに行きまして、子供たちに科学体験のお祭りをしました。2万人近い大勢の方がきてくださいました。そしてその時発見したことは、漁村の子供たちがお魚を触ったことがないということです。水槽に入れたアナゴを触るのに、みんな大騒ぎ。アナゴの方がくたびれてしまっていましたが。漁村の子供たちが魚を触ったことがない。先ほどのように、海水浴に行くと言って、プールで泳いできて、海を知らない。その状況が典型的に現れたのが、今のこの東京湾の海水浴場、潮干狩りの場の縮小だと思います。
環境への適応
このようになりますと、ひと頃言われた公害だけでなく、企業の問題だけでなく我々の生活そのものが、東京湾全体が、しかも自治体から言うと、神奈川県、東京都、千葉県という三つが正直な所、統合的な、総合的な東京湾計画を持たないまま、それぞれが勝手に産業発展を目指してきた。その結果が東京湾にしわ寄せをもたらした。漁業権を放棄され、浅草海苔は採れなくなりました。そして赤潮が発生し、せっかく採れていた、アサリ、シジミをはじめ、いわゆる漁業の対象になるものが消えていったわけです。
もっともこの中に誤解もありました。水が汚くなったから浅草海苔が採れなくなったというのは実は嘘でして、これを申し上げると驚かれるかもしれませんが、本来の江戸の浅草海苔は人糞、人肥で養われていたのです。自然流水として、あるいは肥料として畑の様に蒔いて、本当に美味しい海苔が採れたのです。そういう最も適切な栄養物、しかもあまり菌がない、今のように変な大腸菌のない時代にはそれで美味しい紫色の艶のある海苔がとれたのです。
生きものというものは、きれい、汚いという人間の判断で、透明であればきれいという感覚で考えてはなりません。濁った所にも、そこに最も適した生物が棲むというのが生命の掟です。
人間が見た目で、きれいとか、汚いとか言うのは大間違いだということがあるでしょう。例えば、世界の大河ガンジス川、インダス川、そしてミシシッピー川、黄河どれをとっても透明な川がありますか。自然に流れて、上流から砂を運んでいる姿。それが本当の川の水です。ですから、濁っているのが当たり前です。
しかし東京湾は違います。ここはもう川ではなくなって、川の受け皿としての湾になっています。それが濁っているというのは困ったことです。つまり、水の入れ替えが自由にならなくなったという事情がここに見えてきます。埋め立てによって垂直岸壁ができたとういうことは、人間の生活にとってみれば、洪水も高潮でも安全で、ゼロメートルを切った地帯でも生活できるというメリットも産む一方、自然界で最も豊かな子育てゾーン、海の生物がそこで生まれ育っていくという砂浜、そしてその沖にあるアマモのゾーンがどんどん消えていった。ここで東京湾の生物がガラッと性質を変えてしまった。
今でもいないわけではありません。しかし、今の環境に適することができるものだけが残っていくという大変難しい状況になりました。昔が良いというだけではありません。これからどうしたらよいかということは、そのへんの生態的なことも考えながら、研究をますます進めるということと同時に、皆さんがどんな海を期待するかという構図の書き方にもよるわけです。正直言って、国や地域の計画はそこまでトータルに考えた上で施策をとるまでに、未だ熟していません。やはり、その地域の方が、その海をどう見ているかということが、根底に反映されなければならないと思うのです。
東京湾は生きている
今日はこの変わりゆく東京湾というものをテーマにして、身近な水と人間との接点ということをテーマにして色々議論を進めていくことになると思いますが、私が最後に申し上げたいのは、この1週間の間に二度飛行機に乗ってこの東京湾の上を飛び、九州の方へ行きました。その間驚いたことには、例の台風で気温が急に上がってきて、赤潮の発生がありました。私もずいぶん色んな赤潮を見てきましたが、こんな大規模な赤潮は初めて見ました。東京湾の入り口から始まって、宮崎県の沖までずっと赤潮。しかもあの長い、200メートルというタンカーがすっぽり入ってしまう幅で延々と、太平洋岸で続いていたのです。
これは単に気温の上昇だけでなくて、やはり沿岸水というものが、東京湾で代表されるまだ汚染を残している水が、外洋との接点で生物の異常な発生をもたらしている。やはり人と海との関わりは、広く非常に長い目で考えていかなければいけないということを痛切に感じて帰ってきたわけです。
今の東京湾は死んではいません。これからご紹介あるように、素晴らしいところも、まだ残っています。そして私が経験したところによりますと、つい2年前、東京湾に珊瑚群落発見という記事がカラーで各社の新聞の一面を飾りました。それは、今まで知られていた館山沖の造礁性珊瑚の現在の生育地帯から、さらに十数キロ北に奥まった、東京外湾の勝山沖で、全体で100平方メートルもの広さに広がった珊瑚群落がたった水深8メートルの所にあったのです。それは黒潮の影響がそこまで押し寄せてきているということです。そんな素晴らしい光景もある。
東京湾が二つに分かれているということから言えば、内湾とは別の事情ですけれど、外の海はそれなりに豊かな恵みをもたらしています。
こうした、東京湾の成り立ち、そしてその複合的要素、そしてそこに関わる人類というものを総合的に、是非今日皆さんも、一緒に考えていただければと思います。私はその基調講演ということでお話をさせていただきましたが、最後に是非とも海の認識のあり方として、皆さんそれぞれのご経験がおありだとは思いますが、繰り返しになりますけれど、海の中にも、海中にも陸の歴史が秘められ、陸の上にも海の歴史が残されている。そして人が海と関わっている。そういう認識も是非お持ちいただければと思います。
どうもありがとうございました。
中村 濱田先生、どうもありがとうございました。
それでは、この後パネルディスカッションに移りたいと思います。今日は色々な角度から東京湾を語る、語部(かたりべ)としてパネリストの皆さんをお迎えしております。それではご紹介します。今回五名のパネリストの方をお迎えしております。
まず小山紀雄さん。実際に横浜の柴の漁師さんとして東京湾で魚を捕っていらっしゃる方の代表です。もうひと方が、風呂田利夫先生。この方は前回、前々回にもご参加いただきましたが、東邦大学の講師をしていらっしゃいまして、東京湾の千葉側三番瀬の研究をされている方です。そして湯川れい子さん。音楽評論家、作詞家としてお馴染みですが、実は海や環境問題にも関心をお持ちで、地球環境を考える女性の会WOMEN1000の代表としても活躍されています。そして岸先生。金沢区の八景島埋め立ての時に反対運動の先頭に立っていらした方で、実際にも海を研究されている先生です。そして一柳洋さんです。横須賀の市議として、それと東京湾を守る会としても活躍されています。
このようなパネリストの方々を語り部としてパネルディスカッションを進めてまいりたいと思います。それでは、五人のパネリストの皆さんよろしくお願いいたします。
それではまず、皆様おひとりずつに短い発言をお願いしたいと思います。それぞれの皆さんが東京湾とどういう関わりをしていらっしゃるのか、短くお話をお願いいたします。東京湾への思いを一言ずつ語っていただいて、その後ディスカッションに移りたいと思います。
まずは、小山さんからお願いいたします。
小山 私は学校を卒業してそのまま漁師をやっております。当年50歳になったばかりでございますが、当時は金沢地先の埋め立ての話がありまして、まだ埋め立ての前でしたけど、これから漁業はやっていけるのだろうかという非常に難しい時期に漁師になりました。その時、これから魚が捕れるのかなという感じでいたのですが、漁師になってみると、思いの外、魚が捕れました。
それ以後、PCB問題とか海洋汚染とか東京湾が汚れているという問題がクローズアップされてきたのですが、一時、スズキがPCB汚染のために捕っても売れない時代がありました。しかし、その時代は我々にとっては非常に魚がたくさん捕れた時代で、こんなにたくさん捕れていいのかな、と思うほど魚が捕れた時代でありました。最近ここ4、5年ですが、海が少しずつきれいになってきたなと、そんな風に皆さんも感じられていると思います。また、そんな声を色々なところで聞いております。
我々も表面だけ海を見ていると、少しだけ赤潮の発生が少なくなったかなと、そんな感じにも思っております。しかし、現状は以前と比べると相当魚の種類、数量共に少なくなってきています。
私は漁師として底曳きをやっているのですが、横須賀の第二海堡、第三海堡あたりから、金沢地先の沖、横浜港の沖、川崎港の沖、羽田の沖まで操業しています。それから、今度横断道路ができますが、そのために東京湾の真ん中に島が出来ていますが、あのあたりまで操業しています。それから中ノ瀬の周辺も操業しております。その中で、海がきれいになっているか汚くなっているのかは、海の見た目よりも海の底、底の泥質とか、そこで魚が捕れるか捕れないかによって、職業柄そういう風に海がきれいになったかどうかを感じとっております。
そういう中で最近どうも海が良くないのではないかという風に感じているひとりです。その理由としては、どうも水が淡水化しているのではないかと。
例えば、行政で雨水も、下水管に入れて雨水として流せとか、今まで自然に地面に浸みて流れていたものをわざわざ下水管に入れている。
それから先ほど濱田先生のお話にもありましたが、ほとんど道路は舗装されてアスファルトやコンクリートになり、その雨水が全部下水管に入って、一カ所に流れる状況になっております。昔ですと、あっちからチョロチョロ、こっちからチョロチョロ、それも土に浸みて、一度降った雨が10日とか2週間かかって東京湾にたどりつくのが、ほとんど次の日に東京湾にどっと入ってくる状況でございます。
そのせいか、10年ほど前はそういうことは無かったのですが、最近は雨が降った後は、我々はダンベ(船の水槽)に海水を汲み、その中に塩を入れるんです。塩を入れて海の水とは別に隔離して、そこへ酸素を入れて、魚を生かして海から持ってくる。そうしないと(魚は)ほとんど死んでしまうんです。そういう風に、海で働きながらも海水をつくらなければならない。水がどうもおかしい。
また、八景島の沖ですけど、あの辺りは柴漁港の近くですから一番よく分かるのですが、何年か前にタコが大発生したことがあったんです。その時、ものすごく大雨が降った日があったんですけど、その雨の後に漁に出たら前日までいた場所にタコが一匹もいませんでした。翌日には、もっと深い海、先ほどの濱田先生の基調講演にもあった、東京側に沿って横須賀の方へと東京湾で水深の深い場所があるのですが、そこで相当タコの漁があったという話を伺っております。というのは、八景島の沖のタコの発生する所は、水深11〜15メートル位の浅いところですが、大雨が降ると浅い場所から水深が30〜50メートル位の所に移動して、我々の操業場所には一匹もいませんでした。
そのように、データなどでは分からないのですが、肌で、実感として、雨水によって海が少し変わっているのではないかと、そういうふうに感じております。
それから、もうひとつは、もともと東京湾は地質が、泥質というか、少し軟らかいのですが、泥質化が最近非常に進んでいるのではないかと。その理由として、埋め立てをする場合は残土を投棄するのですが、それがまわりの海域に行かないように防護壁を設けるのですが、それがオイルフェンスの様なものなので非常に小さな粒子の砂がその下を通って周りに流れてしまう。その埋め立てのすぐそばを網で引くのですが、ほとんど網が汚れて泥だらけになって魚が捕れない状態になってしまいます。上はフェンスをしているので、そんなに見えないのですけど、下から粒子が潮によって流れるんではないかと思われます。
また、すべてアスファルトやコンクリートになってしまったので、埃とかタイヤのゴムのカスとか、今までは普通の一般の道路ですと、それを自然が濾過してゆっくりと水だけ海に流れていた。そういう状態が今はなく、埃や泥が全部下水道を通じて海へ流れていってしまう。非常に泥質化が進んでしまっているのではないかと私は感じています。
そのひとつの証拠としては、砂地を好む魚が、イシガレイとかメイタガレイが、非常に多く捕れた時期がありました。ところが最近は砂地を好む魚が少なくなって、逆に泥質を好むマコガレイ等が多く捕れる。少しそういう状態が進んでいるのではないかという感じがしております。
それから、そういう風に魚が少なくなってくると、これは私たちの問題なんですけど、どうしても場所も狭められたり、魚種が少なくなってくると一カ所で集まって操業してしまう。今までは、色んなところでその季節によって色んな種類の魚が捕れたので、いろんな方面に散らばって魚を捕っていた。トリガイをやったり、マコガレイをやったり、シャコをやったり、タコをやったり、今度は車エビを捕ろうよと、そういう風に自然のサイクルの中で捕っていたんですけど、種類が限られて少なくなってくると、皆んなでアナゴだけを捕るとか、シャコだけを捕るとか特定の魚に漁がかたよってくると、今まで非常に多かったアナゴとかシャコにも影響が出てくる。そういう様な現状に今なっております。
特に、八景島の周辺を少し報告したいんですが、あそこは野島公園、海の公園、八景島、そして大きなヨットハーバーが出来ます。それから、埋め立ての沖に歩く歩道が相当長く整備されております。
そのように、横浜市は市民が唯一の親水性を持った所として、あそこをとらえていると思います。それなりに横浜市も一生懸命やってくれていると思います。しかし、現実としては肝心な海の方から見るとどうか。私たちは普段、第二海堡から羽田の沖まで漁をしています。特に、毎年5月末から6月にかけて八景島の沖だけが良くない。そこだけがとは言わなくても、そういうことが多い。なぜだろうかと私は考えるのですが、やはりアオサの問題があると思います。
それから、あそこにつくられた下水処理場の問題もあります。水温にもよるんですけど、アオサが5月の連休から6月にかけて、ブクブク溶けて低酸素水域をつくってしまう。そうすると、そこにいる魚がほとんどダメになってしまう。今年は水温が少し低い関係で、6月の下旬頃にその悪い低酸素水域があの辺一帯に出ました。その時、皆さんが食べるより少し小さい形のメバルが、相当あそこで浮いて死んでしまったんです。それからイシガニ、シャコ、アナゴ、ウナギもいましたね。みんな苦しいから岸壁にはいずって上に出てくるんです。みんなビックリして、何だろうと見に行ったらカニが浮いてる、メバルが浮いてると。我々はメバルも稚魚を買って放流しております。1万とか2万とかの単位ですけど。せっかく放流しているのに、片方ではそういうような現実があって、もう少し待てば皆さんの食卓に上れるという魚が、そういう悪い水のせいで死んでしまっている。親水性を持った非常に良い場所をつくっておきながら、海としてもう少し考えなければいけないんじゃないかと思います。
陸地は整ってきましたが、これから皆さんの力を借りて海の中を良い環境にしたい。そうすれば、そこで釣りをしたり、潜ってカニを捕ったり、アイナメをついたりすることもできます。クロダイもいます。そういう立派な親水性をもった海が、身近にあります。どうか、こういう機会を通じて、もっと皆さんと一緒に海をきれいにしていければ良いと思います。
以上雑駁ですが、こんなところで失礼いたします。
中村 ありがとうございました。
やはり毎日東京湾の水に、そして魚に接している小山さんだけありまして、非常に興味深く、情熱的なお話をうかがいました。
ここで少し進行の方針を変えたいと思います。この東京湾を考えるシンポジウムも、今年が3年目で、第一回の横須賀から色んな角度で東京湾のことを考えてきて、そして一般にきれいになったとか、いや汚いとか、こっちの海岸はいいよとか、色んな角度から、また新しい認識を持っていただいて東京湾を考えてきたとういう実績があります。ですから、そういうことをふまえて、最初から参加されているパネラーの方もいらっしゃいますので、皆さんは東京湾への思いを語っていただくとともに、では今の東京湾をどう見ていらっしゃるのか、いま小山さんのご発言にありましたように、実際に漁師さんをやっていらっしゃる方に東京湾がどう見えるか良く分かりました。皆さんにも是非この趣旨でこの後ご発言お願いしたいと思います。
続いては、風呂田先生お願いいたします。三番瀬の方から見ていらっしゃる現状を含めてお話いただければと思います。
風呂田 大学の場所が船橋という東京湾の一番奥にありまして、かつては屋上にあがると、干潟が広がっているのが見えた場所です。私が勤務しはじめたのは25年以上も前になりますので、その頃からの東京湾とのおつき合いということになります。
私が東京湾を調べた頃は公害の問題が著しく進行した時で、東京湾には生物がもういないのではないかとういう社会的評価すら受けた、いわゆる死の海という意味があったのですが、とにかく今、小山さんの話にもありましたように、実際に東京湾に出てみますと実に色々な生き物がいることに非常に驚かされました。それは、もう東京湾には大したものはいないのではないかという先入観があった裏返しなのかもしれませんけど、それでもたくさんの生き物がいました。
私はダイビングが好きで、生物を見るには潜るのが一番早いということで、タンクを背負って潜って、時には透明度が30センチ、時には良いときで透明度が10メートルあるときもありますが、そういった非常に変動の激しい環境の中でも実に色々な生きものに出会えます。
三番瀬という船橋の沖合に浅瀬の部分があります。これを千葉県が埋めたいということを出しておりまして、埋めろ、埋めるな、どうするかという話を進めているところですが、今私はそこへかなり頻繁に通っております。5月にも、4チャンネルの「今日の出来事」でやったんですけど、行ったときは透明度が30センチで何も映像をとれなかった。ところが、仕事をして30分後には、透明度が4メートルを超えたという具合に、非常に環境の変動が激しいわけです。そういうところに、ときどき40センチくらいのバスケットボール位のカレイがベタベタとついていたりします。
そういう状況を、どうやって生きものたちが使って、なおかつ東京湾の中で今現在棲もうとしているのか。先程、小山さんがイシガレイが減ってきたとおっしゃいましたが、実は三番瀬ではイシガレイばっかりで、マコガレイなんかはほとんど捕れません。ですから、そういう意味で東京湾はまだ非常にいろいろな生物を残している環境だと思います。
数少ない良い場所をうまく使って、そして環境変動が実に激しいですから、時には酸素が無くなる様な青潮が出るときもある。時には水温が30度を越えるときもある。そういう時は、どこかに身を寄せて隠れている。そういう東京湾を何とかして、上手く使おう使おうという努力の結果として何とか今の生物が生きているような気がします。ですから、そういったものを大事にしながら、なおかつ、ではそういったものに対して、どういう状況を用意したらいいのか、そして、あまり人工物をつくるということは考えないで、置いておけば、どうやって使っていただけるんだろうか、そして現在どうやって使ってもらっているんだろうかという発想で、やっていって、もう少し生物側から見た東京湾の使い勝手の良さというものを考えていくことで、東京湾がもっと豊かになるエネルギーを引き出せるのではないか。そういう観点で、今研究を続けています。
中村 どうもありがとうございました。
続きまして、今回初めてパネラーとしてご参加いただきます。地球環境をグローバルな視点で見ていらっしゃいます。湯川さんに東京湾を語っていただきます。
湯川 グローバルなんて言われると困ってしまうんですけど(笑)、全然グローバルではないんです。
私は非常に極視的なところから環境に関わっていまして、子供が2歳半の時少し喘息気味だったものですから、プールに通わせるようになったら、目が真っ赤になって、すごい塩素で、これはおかしいのではないかと思って、水が異常だからなんとかならないかということで。ひとりではできないので、環境運動になんとなく自然に入っていってしまったという。
今だに私は環境の専門家ではなくて、今もお話を聞きながら面白いなって思っていたんですけど、音楽が専門ですから。例えば、海は広いな大きいなとかありますけど、私も結構アンルイスとか、中森明菜に、海、東京湾ていうのは、なかなかロマンチックな風景もあるもので、詩を書いたりしているんですね。
今ふっと思い出してたら、アンルイスの歌に「オレンジパナッシェみたいな海の色」っていう言葉で、自分はとっても粋がって書いた詩があります。オレンジパナッシェって言うのは、何かというと、オレンジジュースとビールを混ぜたカクテルなんです。そうすると、まあひどい色なんですね(笑)。それから中森明菜だったと思いますけど、「カシス薄めた海の色」というのがあって、カシスというのは野苺みたいな赤い色ですけど、それも今思うと、あれは13号埋立地かなんかで、海をぼけっと見て書いた詩なんですが、赤潮が出ていたのかなとか、そんな風に思いますけど。
私にとって、ごく一般の東京人と同じ感覚で、もう東京の海はダメだと思っていたんです。もう死んでると。それで、その水の問題に関わるようになったものですから、結局私たちの飲み水、口に入る水というのは、実は山林がダムの役割を果たしてくれていて、山林というのは神様がつくってくれたすごい浄化槽であり、ダムであり、そしてそれがやがて畑にきて、この畑も素晴らしい浄化槽であり、そしてそれが川に来て、そして海にくるんだと。
その川や畑を汚しているのは、色んな農薬とか、廃棄物とか一杯あるんですけど、私たち自身の出している家庭排水というのも大きいということで、千葉県の手賀沼の水の浄化運動とか色んなことに関わりを持ちまして、さまざまな問題が見えてきまして、海の水を美しくするには、山林から、畑から守っていかなければならないし、それから例えば海でも、三番瀬なんかも、まさに干潟というのは神様がつくってくださったすごい水槽、しかも浄化槽であり、たくさんの生物を生かしている所だということも最近になってわかってきた、いわば素人です。
そして、そういう環境に関わっている間に、例えば環境庁の中央環境審議会の委員なんかにもさせていただくことになりまして、素人というのは怖い物知らずですから、例えば東京湾ていうのは、あんなにベイブリッジだ、レインボーブリッジだ、横断道路だという物をつくって、たくさん東京の排水が流れ込んでるわけですから、さぞかしひどい状況で、アナゴなんて漁獲量はどうなっているんですかなんて言いましたら、環境庁が調べてくださいまして、アナゴの漁獲量は上がっていると言うんですね。けして減ってない。
そんなところから、今度は海の中を見せていただきましたら、先ほどもお話にありました様に、ある種のお魚は増えていたり、あるいは稚魚の段階ではたくさん増えるんだけれども、それが途中からいなくなってしまったり、それから三番瀬のような貴重な浄化の働きをして生物を産み育てている干潟もあるけれども、一方は、ヘドロの場所がすごく広がっているとか、東京湾と一口に言っても、一口では語れないということも最近だいぶ勉強してまいりました。
ですから私から見た東京湾というのは、まず山林とか畑とかと大きく関わっている。それから川と大きく関わっている。それから、都市の人の健康と大きく関わっている。飲み水の問題もありますし、それから関西などでは焼却炉の残廃をそのままフェニックス計画で海の埋め立てに使っているということは、ダイオキシンの問題などをたくさん引き起こしてきていると思いますし、東京も魚とダイオキシンのことなんかは、私はやっぱりとても気になるところで知りたいなと。そんな心配をしていると、また海に遊びにいく人が少なくなってしまうのかもしれないけれど、そのへんもふまえて本当のところが知りたいなということと、あともうひとつ、海に興味を持てば持つほど分かってきたことは、私が海に、東京湾に遊びに行きたいと思っても、さっき13号埋立地と言いましたが、ほとんど海に接して歩くことができません。豊洲あたりのビルの上から見ますと、たくさん船が、毎晩東京湾に出ていって、これだけ皆さん海で遊んでいるんだなと思うけれど、ではあんな夜の屋形船に乗って行って、東京湾が分かるかというと、きれいだなと見るのは東京のビルの明かりであり、東京タワーであり、そしてレインボーブリッジなんかの人工的な光であるわけです。
そういう意味で東京湾と本当に接する接点がない。このへんを何とかしていきたいなと思いますし、また、私の息子なんかもそうですが、海に行こうよと言っても、汚いと言って、プールでしか泳がない世代になってしまっています。そういう子供たちをもっと小さい時から海に親しませていくという、教育の面からも東京湾を考えてみたい。是非学校の遠足なんかの中に、海と接する部分も取り入れていただきたいと、そういう情操面からも考えますし、一方では環境の問題として、しっかりグローバルに捉えて。この海というのは、日本だけのものではなく、諸外国ともつながっている、重要な環境の、そしてまた大変な浄化槽であるということも、ふまえて勉強していきたいなと思っております。
中村 ありがとうございました。湯川れい子さんでした。
続きましては岸由二さんにお願いいたします。先程の小山さんは漁師の立場で野島の海を見ていらっしゃいますが、岸さんは子供の頃から野島の海をフィールドとして、市民の立場として関わってきた方です。また研究者としても、もちろん関わっていらっしゃいます。
岸 僕の苗字は岸というのですが、どこの岸かと言うと、東京湾の岸で、100年位前までは根岸湾の漁師をやっていました。
おじいちゃんの時に陸へ上がってしまって、あとは職人ですので、僕は浜とおつきあいが何にもないんですけど、一族の墓は根岸湾の辺りになります。京浜運河のヘリだとか、大黒町の埋立地のヘリで遊びました。その後、中学生の頃から金沢の野島とか平潟のあたりに自転車で出入りするようになりまして、ちょうど25年ほど、ほとんど金沢の海で過ごす、遊びは金沢の海、入った大学が横浜市立大学だから毎日授業をさぼってハゼ釣りに行く、卒業して別の大学の大学院に行きましたけど、もうその頃環境保全活動に関わっていて、それから研究者としても魚とかカニをやっていましたので、すべて金沢の海ということで過ごしました。
ただご先祖が漁師なので申し訳ないのですが、僕は船にすぐ酔うので、僕の東京湾をいうのは湾上ではないんです。それから素潜りはとても得意で、5メートル位潜っていろんな魚を捕ったんですけど、アクアラングで潜るというのは、なんか反則のような気がして、全くやらなかったので、僕の海は岸辺なんですね。素足で入っていってちょっと潜るだけでつき合える。25年間そういう所としかしつき合いませんでした。論文もいくつか書きましたけど、全てタモアミで入れる海、東京湾。ですから、岸辺で東京湾とずっとつき合ってきた人間です。
僕の金沢とのつき合いをちょっとお話したいんですけど、中学生の頃、釣りで出入りを始めまして、遊びをする。大学で半分研究みたいなこともしますけど、基本的には遊びと研究。ところが1968年大学の3年の頃に、さっき小山さんのおっしゃった金沢の埋め立てというのが出てきまして、これは大変なことになるというので、資料収集を始めました。自分一人で学内でビラをまいたりしてたんですけど、誰も応じてくれなくて、とても心配でイライラしてたんですが、1971年に金沢に埋め立て反対をする市民運動ができるというので、もうとにかくすぐ飛び込みまして、それからちょうど5年程かなりきつい、当時は住民運動と言っていたんですけど、行政にも押し掛けるし議会にも押し掛けるという、とっても激しい市民運動の事務局をやっていました。ところが、4年に埋め立てが確定して、1976年に反対運動の組織も崩壊してしまって、僕は市民運動から引いたんですね。
その後、離れられなくて、今度は研究者として金沢の海に付き添いました。昼も夜も金沢の海にいるという暮らしをしました。その頃の経験はつらくて、なかなか海の話をしないでいたんですけど。何がつらかったというと、海を大事にしよう、東京湾を大事にしようという声は、実は1960年代の末からあったんです。今と同じ様なことを皆言っていたんです。70年代の初め、金沢の海の埋め立てを反対する運動が始まった頃、東京湾全体で反対のネットワークをつくろうという、かなりきちんとした動きもありました。住民大会をやれば何百人も人が集まりました。今よりもたぶん集まったなと思います。ところが、ほとんど何の力もなく埋め立ては、そのまま進んでしまって、大きな変更もできないままに終わってしまった。終わってみて僕が感じたのは、ビジョンの力とでもいうことかな。
東京湾というのは、毎年毎年、何万トンもの魚が捕れて、とんでもなく素晴らしい生産の海だということを皆わかっていたんです。子供が海辺に行けば、とっても楽しい所だということも皆わかっていました。そういうものを大事にする都市をつくろうと皆言っていたんです。ビジョンはあった。ところがそのビジョンにほとんど力がなかったんだと僕は思うんですね。
何で力が無かったかと言うと、今僕が言えるのは、二つなんですけど、ひとつはそういうものを支えようとする行政の動きが無かった。東京湾全体を考えて、保全を工夫するという、枠組みは国も持っていませんでしたし、神奈川、東京、千葉の三県も持っていなかった。だから、行政がやる気が無かった。
それから、市民側もちょうどあの頃は汚染問題がとても注目されていて、東京湾がどんなに汚い海で、どんなに怖い海かを強調することがかっこ良かったんです。だから埋め立て反対する人も、海へ行けばカニがいてどんなに面白いかとか、海に行けばハゼがいてどんなに楽しいかということをひと言も言わないで、PCBで汚染されているどんなに怖い海かということをひたすら強調して、それなのに埋め立て阻止という何か変なことを言っていたわけです。
それで埋め立てが行政的にOKになって、活動が止まってしまうと、その後僕は10年、金沢の海にずっと、昼も夜もいましたからよく知っているんですけど、埋め立て反対運動を一緒にやっていた人たちが遊びに来る光景に一度も出会ったことがない。僕は一番それが衝撃でした。つまり、あの反対運動は何だったんだろう。海が好きで、埋め立てられようが、やられまいが、この金沢の海が好きだから、そこにへばりつきたい、という人がやった運動ではなかった。
これが市民側からのビジョンの力の無さだった。これは、つくづくそう思って、海から10年目に離れたんですね。で、ちょうど地球環境問題もとっても深刻になっていたんで、ゼロから体制を組み直すという感じで、しばらくは学生暮らしをしていたんですけど、川へあがりました。
今僕は、直接海はあまりやりませんで、鶴見川の流域ネットワーキングだとか、三浦半島の小網代の谷を守るとかいうので、流域から考え直すというのをやっています。そのままであれば、たぶん後10年ぐらい、東京湾とつき合う接点はなかったと思うんですけど、気がついてみたら東京湾、しかも僕が人生半分かかっているような金沢に、ビジョンを支える様な市民の動きがおこっていることがわかった。
金沢を拠点にする多くの市民活動、それから海をつくる会、その方たちが海が好きだから海を守りたいと言い出した。僕が知っている限りでは、こういう運動というのは本当に新しいんですね。そういう皆さんに引っぱり出されて、もう一度昔の金沢に出てくるということになりました。
ちょうど地球環境問題が注目されていて、例えば持続可能な社会をつくっていく上で、東京の首都圏というのは、その母なる海である東京湾や相模湾とどうつき合うのかという事は、本当に深刻にこれから考えなければいけない。そこで採れる何万トンかの魚とどうつき合うのかとか、そこの与えてくれる自然供給の可能性とどうつき合うのかを、本当に深刻に考えなければいけない。そういう時代になって、行政の方も少し空気が変わってきました。たて前ではなくて、ビジョンを支えるという意志を持った行政マンが少しずつ出てきた。市民運動の方にもそういうのが出てきて、これは新しい事が始められるかなとういう感じがあります。
僕が何を夢として、何をやろうとかというと、今すぐに海の問題にもう一回戻れる状況ではありませんから、すぐには帰らないんですけど、やっぱり海辺、僕は潮が引くとうんと干潟になって、潮が上げるとヘリまで水になってという領域がとっても好きです。陸と海の狭間の領域が好きです。埋め立てでそういう領域がほとんど東京湾から消えました。ところが金沢の海には、そういう領域がまだ残っています。わずかですけど。で、海辺の文化を再生したい。
これに関しては、海辺に付き添って、それがどんなに面白いところか味わって、さらにもうひとつ、これが重要なんですけど、お世話をする。ゴミ拾いでもいいし、そこに自然を回復する作業でもいいから、文句を言っているだけでなくて、お世話をするという要素がもう一つ入ったような市民活動を海辺から始めたい。どんなに規模が小さくても、そういうものがスタートしていって、東京湾全域、700キロか700数十キロぐらい湾岸域があると思いますけど、そこのありとあらゆる所に、もう一度人が海と接触できる海辺が回復されてくる。で、生態学的にも回復されるし、文化としてもそこを楽しむ人が出てくる。そういうビジョンに賭けたいなと思っています。
さしあたりは、鶴見側の河口に、今日の主催者側の一団体でもありますけど、鶴見川を再発見する会という会があって、そこが生麦の浜を再生するという活動をやっています。そして金沢は、野島の周辺にもう一度、塩水沼沢、ソルトマーシュを回復して生きものがたくさん賑わう海をつくり直そうという運動をしています。そういうものを応援しながら、僕の拠点は川になってしまいましたけど、川から降りていくのかな、という風なことを考えています。
中村 ありがとうございました。
続いて一柳さんお願いいたします。
一柳 楽屋の打ち合わせとはだいぶ変わってきましたが、海の男は臨機応変と教えられて来ているので、そのように話していきましょう(笑)。
私と海との関係は名前の太平洋の「洋」からはじまりますが、祖父は網元の株主で、父はこの名を付けた翌年漁師をやめているので、名前だけ贈与された形です。家から直線距離で80メートルが海という漁師町に育ちました。サッパなどの多角性の魚が捕れると、近所の人はバケツ一杯ただでもらえた。そんな所でした。
小学校5年生頃、いわゆる高度経済成長の波がきて、この海が1、2年で泳げなくなりました。子供心に「大人はこんな事をしていいのか」と思っていました。
高校を卒業した頃から離島ブームがはじまり、潜るのが好きだったので、スキューバの機材をかかえて沖縄や小笠原の海に潜りに行きました。しかしそこの海では自分はお客さんダイバーでしかないと感じ、生まれ育った横須賀の海をずっと見ていこうと決心して、22年前から身近な東京湾を潜りはじめました。議員になる前は年間に50本も60本も潜っていましたが、今はせいぜい30から40本というところです。よその海に行かない年も多い。それは東京湾が楽しくてしょうがないからです。
プログラムにのせた写真はホウボウという魚で、横須賀の三軒谷という海水浴場で撮影したものです。引き潮の時に膝丈くらいのところにいました。浅い海はものすごい(種類の)魚を育てるということを潜るたびに感じています。もう時効だから白状すると、17〜18年前はよその海でアワビやサザエをよく捕ってきたものでした(笑)。今は漁業法違反になるから一切していません。今までいろいろな海で潜ってきましたが、栄養のある美味しい小魚がいっぱいの海、美味しい魚が食べられる海というのは一つの共通項があります。それは全部が浅い海だということです。
日本人は三代たどればだいたい百姓であり農民であるといわれています。その背景から、土地が増えるということにDNA的喜びがあるのではないでしょうか。海より土地の方がいいという人は政治家にも行政マンにも経済人にも相当います。こんなにいい場所を調べもしないで埋め立てるというのはおかしいじゃないですか。つまるところ政治問題です。それで議員になったわけです。
こんなに面白く楽しい所を埋め立てるというのはつまり、大人が個人個人の生活を楽しんでいないからではないですか。経済的に失敗した埋め立て、例えば臨海副都心であり、みなとみらい21のようなものはいっぱいある。現在、三大官僚悪といわれる、もんじゅ、住専、HIV。地方にはミニもんじゅ、ミニ住専、ミニHIVがある。しかし、誰も責任をとりません。無責任でいい政治が出来るわけがありません。かといって責任追求だけでは解決しません。そこで、責任をもって政治をするということが大切なのです。もう単なる反対運動(をする時代)は終わり、今は若い人から老人まで元気さで「何とかしたい」という意識に変わってきています。10数年前から今の言葉でいうビオトープ、親水性のものをつくり直そうということを市とやってきました(シンポジウム資料参照)。激論の結果、理念は一致しましたが、規模で一致しませんでした。それでも行政につくらせたら結構面白いものが出来上がりました。行政側も市民と一緒にやったら面白いと感じてきたらしく、発展的にやっていこうと現在も話が進んでいます。
そこで、こんなことをすると生きものが帰ってくるというスライドをお見せいたします。
以下スライドの説明
写真1 横須賀市安浦の埋め立て(3年前に終了)
5年位前、埋め立てに反対したが、議会の支持を得て通ってしまった。市の計画は親水性公園をつくるという新しいものであった。しかし、提案されたものは、50メートル長水路屋外プールとテニスコートの図面。これは親水性ではないということで議会と市民団体で話し合いをおこなった。
写真2 観音崎灯台
横須賀の自然環境は大きな干潟が無い。というのも三浦半島には大きな川が無いからである。観音崎から下は磯。磯と磯との間は砂浜。砂浜は海水浴場。
磯があって砂地がある。これを復活させたい。
写真3 人工潮だまり全景(50メートルプール2コース分)
満潮時にここには数十種類の魚が待っていましたとばかりに逃げ込んでくる。入り込んでくる。だいたい6〜11月下旬までものすごい魚の数を観察できる。
写真4 オヤピッチャとロクセンスズメダイ
これは人工潮だまりの入り口付近。水の色、濁り具合は富栄養価によるグリーンの状態。まるでバスクリンのよう。
写真5 ボラの子
潮だまりを上から見ると、岩についている小さな海藻類等の餌を魚達が安心してとっている。
写真6 フジツボ
何故水が澄むのかというと、このような岩の間や中にフジツボや二枚貝が脚を出して漂っているプランクトンをとってくれるからだ。潮だまりの中にこのような小さな生きものが何十、何万といる。そういうものが一生懸命浄化してくれている。
写真7 アオサが酸素を出しているところ
また、浅い海というのは太陽の光がよく届く。沢山の酸素がこのようにアオサから出ている。このアオサは岸辺でよく見られる海藻だが、このようなものが酸素をつくり出している。酸素が十分に溶けている海では生きものが安心して住むことができる。
写真8 メジナ、二枚貝
岩陰にはメジナの子供がいる。未成魚くらいまで沢山入ってくる。二枚貝のカキはプランクトンを主食にしている。汚れを食べてくれる。
写真9 カゴカキダイ、外来のムラサキイガイ
ムラサキイガイはムール貝であるが、これらも浄化能力の高いものである。
写真10 巻き貝
巻き貝も沢山いる。ここが有名になってしまって、美味しさを知っている人が2、3人入って、今はまったくなくなった。
写真11 イソスジエビ、ハゼ
餌となるエビのようなものもいっぱいいる。
写真12 クロダイ
クロダイの子供達もいる。
写真13 シマイサキ
だいたい小型の魚が多くいる。
写真14 潮だまりの図(行政と決裂の原因)
非常にいい施設だが、私たちは水深が十分にあって、これより数倍広いものをつくりたかった。欠点は大潮になるとひからびてしまう。潮がたまらないから生物もたまらない。海藻等も全部枯れてしまう。魚もいることが出来ない。
潮が引いても水が引かない、水深のあるものの方がよい。しかしそれには責任問題が絡んでくる。行政がつくったもので市民が溺れたりすると、行政の責任になる。楽しい施設をつくる時に、怪我をしたり死んだりした時自分がその責任をとる。これからは市民が行政をそういうところで追求しないというのもひとつの考えだ。安全、安全ばかり。人間のためばかりだと、生きもののためにならない。
写真15 ひょんなことから積石でつくった防波堤
普通の防波堤は垂直だが、ここは積石。生物の生息環境に非常に適していて、多様な生物が集まる。
写真16 アケボノチョウチョウウオ
夏から秋にかけて見られる。
写真17 メバルの群れ
何千というメバルの群も来る。
写真18 イシダイ
イシダイの手のひらサイズの群も来る。
写真19 スズメダイ
普通は沖縄等のサンゴの海にいるが、岸から40メートルのところにいるのである。
写真20 ソラスズメダイ
こんな魚も来る。
写真21 伊勢エビ
そして最後には伊勢エビも戻って来る。
このようにいかに東京湾には生物が豊富であるか分かっていただけたでしょうか。人間達がちょっと工夫して努力すれば、こんなに生きものがよみがえるんだということ。この辺りをこれからもっと考えるべきです。
中村 一柳さんの具体的な例により、あんな風に魚が戻って来て僕らもジャブジャブ出来ればいいなぁと思います。
ここからは東京湾をどのような海にしたらいいと思っているのか、東京湾にどんな夢を抱いているのか、具体的にどういう風にしたらいいか、横須賀以外の東京湾の他の所からということで風呂田さんから口火を切ってもらいましょう。
風呂田 東京湾は変動しています。その中で生物は生活できる場所を渡り歩きながら、使いこなそうとしています。東京湾は単純な海ではなく、広く考えると海としての要素を全部持っているのです。
川が入り込んで、湿地になって葦などの泥につかってしまうような所があって、干潟が延々何キロも続いて、横須賀の方に行くと、岩場、岩礁、砂浜があって、もっと南にはサンゴも生きている。東京湾でも場所によって違うから、それぞれの場所に何がふさわしいか考えなければいけません。多分、横須賀の海岸に干潟をつくろうと思ってもつくれない。逆に東京湾の奥海岸は泥場であり、干潟であるというのがふさわしいのです。地形がどういうものなのか、環境がどういうものなのか単純に考えればいいんですよ。もともとあったものが一番いい。そういう発想です。
行政は何かひとつ成功すると、何処にでも当てはめるのが好きなようですが、それぞれの場所が何が一番いいのか探らなければいけません。その原動力となるのは日常的に海を見ることです。住民サイドの問題で、そういう目で自分たちの海を見つめていただきたい。
例えば、汚い都市の中の川のあるところを綺麗にして海水浴場をつくれば、先程も話に出たお台場で大腸菌が発生するとか、このようなことは当たり前です。
それぞれの場所がどうなっているのか。例えば、トビハゼがいて、人間は汚くなるけど生物はそこが一番好きそうだとか。住民サイドの知恵というか、観察力を身につけることです。皆さんが日常から海と親しんでいかなければダメなのです。また、行政が我々と海を切り離している垂直護岸とか立入禁止の場所を開放する。三番瀬のようなせっかくいい所があるのに、何で単純に埋めてしまうのでしょう。そういうところはこちらが批判していかなくてはいけません。そして、住民が海をよく理解し、よく親しんで、よく良い思いをしているかというのが一番大きな柱となるでしょう。
僕自身の好みでいうと、大人は楽しんで今までよくやってきたけど、子供に楽しい思いをさせてこなかったんじゃないか。奥の干潟などは子供が遊ぶにはもってこいの場所です。浅いから、子供達は溺れようがない。膝くらいの所は永遠に膝くらいしかない。シュノーケルを付けさせてみると、エビはいる、カニはいる、魚はいるで、そういうところから海に親しみを持つ人がいるんじゃないかと思います。
そういうことで原点に帰って、僕たちが東京湾を積極的に使って、東京湾の持っている場所、場所の個性を理解しましょう。生物の持っている個性を理解しましょう。
そこからはじめたらどうかなと思っています。
中村 千葉の奥に白い砂浜をつくっても意味がないのだ、ということですね。
岸 僕は金沢の反対運動のことがあって川へ上がりましたが、もう一度東京湾の周辺を地面から海を考え直すことが必要だと思います。その場合、地面というのは何者かということを考えなければいけません。ただの地面ではダメで水循環を軸にして地面を考えるのです。足元に現れてくる地球の構造を水循環から考えると、川が刻んだ流域という広がりが出てきます。流域思考とかいっていますが、都市の中で川が刻んだ流域を基盤にして環境保全型のまちづくり、文化活動につながります。
僕の具体的な持ち場は、ひとつは鶴見川、もうひとつは三浦半島の手の付けられていない谷、小網代にある浦の川です。さしあたりの展望というのは、川からもう一度海へ下りていくこと。ひとつは鶴見川河口の生麦という漁師町にあります。漁師さんは減りましたが、まだ朝市も残っています。そこでは赤貝だとかハマグリなんかの二枚貝の加工業(よそから持ってくるのだが)が盛んで、身を抜いた殻のごみ捨て場があります。これが海岸になっていて、ここを鶴見川を再発見する会の人達が「これは貝殻浜だ」と呼び出し、綺麗だと言い出しました。実際、石灰質の貝殻がいっぱいあって、その間にはカニや小魚がいっぱいいます。少し水質が良くなれば、ここは水棲生物の繁殖地になります。地元の人はごみ捨て場だと思っているけれども、綺麗だという発想の転換が進んでいるのです。治水工事関係上難しい所ですが、うまく行政と市民が連携して、貝殻浜公園みたいなものが出来ればいいなぁと思っています。そこには本来鶴見川の河口と東京湾とが接触する所で、公園みたいなものが出来て子供達がそこへ来れば、海のことも分かるし、川のことも分かる。そこが鶴見川流域全域と東京湾をつなぐ象徴的な場所になるのではないでしょうか。川というものがただ川ではなく、流域から、地面の広がりから分かってくるのです。東京湾を汚さない為には、流域のまちづくりから考えていかなければなりません。川がコンクリートで防がれてしまえば泥が流れなくなるし、家庭から汚い水を流せばそれが東京湾を汚すことだと分かってきます。
もうひとつの持ち場は横浜市金沢区ですが、ここは東京湾西海岸沿いのポイントだと思っています。円海山から鎌倉にのびる多摩三浦丘陵地を代表するような丘陵地が海の側まで迫っていて、金沢の海自身、平潟湾があって金沢湾があってというような副湾構造になっています。広重が金沢八景ということで浮世絵に残しているように、そこにはものすごい広大な湿地があって、葦原がわーっと広がっている。狭い範囲に山があってちっちゃな川があって、広大な浅瀬のある海があった。東京湾の本来の姿を凝縮したような場所があるのです。
今は徹底的に市街化されて家だらけだけれども、やろうとすれば山から流域全体から、川から海から、生物多様性が、自然の景観が可能な限り復元していく運動ができます。山から活動している人達、中心になる侍従川活動する人達がいて、海を支えている人達の非常にいいネットワークが出来ています。金沢の周辺で山とか町とか海とかもっともっと大きいネットワークになって、東京湾の岸辺でこういう工夫をすればこんなに面白い生物多様性回復と景観回復ができるという実例をつくってもらいたいのです。僕が応援しているのは、侍従川の河口域にカニとか鳥がいっぱい帰ってくるような葦原を復元しよういうものです。東京湾西岸からはほとんど消えていますが、大井と多摩川にちょこっと二次元的に回復しています。金沢の取り組みは行政も前向きの対応をしていて、金沢の海に限れば、是非そこで東京湾を復活させる、海辺文化を復活させるということ。そういうビジョンを支える行政、市民の熱意があります。ここでいいモデルを是非、是非つくってほしいと思います。
湯川 現在のウォーターフロントの開発っていうのは日本国中どこへ行っても金太郎飴のように同じです。干潟を干潟として残すのは理想。しかし、なんの産業の活性化もないというのも問題ではないでしょうか。行政に期待しても予算上無理だとか。本当にそれが理想として出来るのかという代替案を考えなくてはならないのでは。干潟、三番瀬を残したいのは勿論当然の理念ですが、日本のウォーターフロントをどうしたら魅力的にできるのでしょうか。
乱暴な言い方ですが、アイデアを出すとお金を持っている人がそういうものをつくるわけで、地場の活性化ということになると金太郎飴になりかねません。皆、香港型のような垂れ流しの水上生活スタイルが違うということは分かっています。では例えば、サンフランシスコやバンクーバーのように限られた都市の中での海上生活者というか、住居としても、親しみの場としても、活性化の場ととしても海を使っている例は沢山あります。だから、人間が遊べる海にするには、眺めのいいマンションをつくる、レストランをつくる、レストランやショッピングセンターをつくるのもアイデアかもしれないけれども、もっと違う形態があるのでは。
人間が遊べる。人間だけではなくて、他の生物と一緒に考える。勿論人間もですが、住める、遊べる、楽しめる海。そこで干潟をアメニティの中にどう取り込むかということを、山林から川から畑から考えなければいけません。行政も環境庁だけじゃなくて、農水省、建設省、その他の省庁が横のつながりの行政の形をとるように訴えかけをする事も大事なのではないでしょうか。
また、産業として考えて活性化できる海のビジョンというのも考えられるでしょう。それには市民参加型でアイデアを募集したり、色々な業界がひとつになるような方向性をつくりたいと思っています。
小山 祖父から聞いたところによると、侍従川の河口には葦があり、乙舳の海には藻がすごくて、大潮になると碇を下ろさなくても舟は藻の上に乗り流れないで釣りができた。それくらい藻があったということです。第一次大戦前後、海軍基地による町工場が出来て、住民がどんどん増えて葦原とか藻が減ってしまったと言っていました。川や沼の周りで生活する我々が何らかの形で藻を後退させたんじゃないかと思います。先程、浅草海苔は美味しいとあった通り、川から流れたリン、窒素が海水に適当に混じった中で本当に美味しい海苔が捕れます。また、そういう所だから非常に脂ののったアナゴ、シャコ、魚が捕れるわけです。
今、パックで売っているものを買われる人も多いと思うんですが、美味しい魚を食べたかったら自分でつくるしかない。捕れたてのを食べるのが一番美味しい。僕の女房が捕れたてのをその場でパーッとさばいたのが、魚屋で食べるより、どんな小魚でも旨い。それは一番新鮮だからです。自分でさばいて食べるなら魚屋も安く売ってくれますし。また、金沢は夜のつまみにするイシダイが1時間で2、3枚釣れる所がまだまだあります。しかし、時期的に悪い水が来て継続的に釣りができにくい。釣れるポイント、釣れる時期に来ればいいけれども、それ以外だとあまり釣りができません。でも、決して捨てた海じゃありません。皆さんが散歩がてらに来て、釣りをしたり泳いだりできる所です。東京湾は、皆でほんの少し努力すれば、今以上の親水性を持った海になる所なのです。
中村 夕食のおかずをとりにちょっと釣りに行ける。最低でも東京湾のまわりに住んでいる子供達には、切り身が海の中を泳いでいるなんて思ってほしくないですね。
一柳 ジャーナリスト家業、議員になって5年の立場からウォーターフロントが金太郎飴だというのは感じます。それは運輸省、建設省の押しつけが問題なのではないでしょうか。そういう人達に反論があったら、次回でも次々回でもこのシンポジウムで議論したいと考えています。
まちづくりについても今までの開発か保護かという論じ方は古くなって、55年体制も政治の上では崩壊し、このようなものも崩壊したと思います。自然をどう町に生かすかは環境庁の問題ではなく、まちづくりの問題で、これからのキーワードとなるでしょう。その中で食べる楽しさとか、感動を味わえる楽しさが重要なのではないでしょうか。
横須賀側から平潟湾に注ぐ大変汚い鷹取川に関して、以前からの友人が「鷹取川を何とかしないのか」と言ってきました。それは反対運動ではなく、ネットワークが広がってきて汚くなった川をよみがえらせようというのです。予算どうこうの前によみがえらせようと言う人、仲間を増やそうというような参加意識でやれば、それが良い町をつくることにつながるのです。
先程まで国会議員が(参加者として)来ていたり、横浜、横須賀の市会議員の方が来ていますが、今まで複数の議員は(このようなシンポジウムには)出て来ませんでした。ひとりでは浮くだけだったのですが、仲間を増やしながら楽しい運動をしていきたいのです。色々な成功例を見ると、本当に様々な人達でつくられています。そういう人達で議論してまちづくりをし、本当に楽しい海が出来るんじゃないかと思います。
岸 僕はエコロジストであり、生物学者であり、生態学者であり、社会活動もしています。もしかすると学者より市民活動家のエコロジスト(笑)であると思うが、無限にあわせていくと本音はディープで頑固って分かっています。まちづくりの中からもう一度川、流域、東京湾を考えるっていうか、考え直す根拠、拠点としてまなざしの変換、見え方の転換がないとダメだと思います。その中で、無限に妥協していますが。どうして僕が「海辺」にこだわるかというと、僕はウォーターフロントという言葉が無限に嫌いだからです。そういうものをテーマにしたものにも付き合いはしますが。
あれが流行りだしたのは埋め立ての頃でした。それを思い出していただきたい。それに僕たちがのってしまった瞬間に、僕たちの東京湾があたかもカリフォルニアのように賑やかにアメニティだけを中心にしてつくられたベイエリアになってしまった。ところが実際のカリフォルニアなどは本当に流域全部でとても一生懸命に自然保護活動をやっている。日本は訳の分からない大開発に誘導するときにそういう概念が出てくる。僕は意識した上で使うことはあるが、「海辺」、「岸辺」という良い言葉あったのに、どうしてこの言葉を使わなければならないのか。言う必要は全然無いのに。カリフォルニアの海でもなく、地中海の海でもなく、僕たちの言うのは東京湾そのものです。そういう文化をつくり直さなくてはいけません。ゼロから海辺文化をつくり直す。古老や子供に話を聞くのもいい。昔に戻る必要は全然ないけれども、場所場所の風土性、海辺文化をつくり出すという、東京湾へのまなざしが必要なのではないでしょうか。そうじゃないと新しい東京湾をつくることはできません。そのポイントとしては、とにかく生きものの賑わいを大事にする。人間だけじゃなくて。もうひとつは本来持っている地形というか、砂や泥や岩とかの地面の特性、大地の特徴を大事にすることです。そのふたつを忘れないでいきたいのです。
正直言って、コンクリートの垂直護岸が100年たったら、建設廃材を埋め込んでなだらかにして、200年くらいたったら今からは想像できないくらいの海岸線が出来上がるんじゃないかと僕は思っています。そういうビジョンを持ってやるのが、地球環境危機の時代の東京湾論議じゃないかと思いますけど。
風呂田 環境をどうするかは自分の思っている好みの問題でもあると思います。海と人間との付き合いなんて堅苦しいことも話してきましたが、はっきり言えば、うまい物を食いたい、しかも自分の手で捕りたい、自慢話を共有したいという単純な発想から、それが漁業になったり地域文化になっているのではないでしょうか。海があってそこに資源があって、それを捕って、捕ったのを聞いてくれる人がいるということ。海辺文化の原点はそういうことだと僕は思います。
それにはどうやって利用したらいいかとか、継続的に維持できるかを考えると、おのずから海辺開発が見えてきます。そういうのを忘れて、単純なものを切り捨てて、オペラハウスだとかマリンスタジアムだとかハードなものをつくるからおかしくなってくるのであって、まず最初は海の持っている単純な、人間の欲しがっているものは何であるかという事を大事にすれば、今の東京湾の持っている良さを将来共有できるのではないでしょうか。それを見直す、あるいは海辺の使い方については、住民サイドからの単純な欲望、意見が出るまでもう少し待っていいんじゃないだろうか。三番瀬なんかはそういったものを維持し、使った上で、地域で産業をどうするか考えていくべきと思います。
世界的にも東京湾と関わりある町があるということで、個性として特色を評価されてくるのではないでしょうか。そういう視点をもってやっていかないと、永遠に失敗を繰り返して子供達につけが回っていくという、つまらない社会になってしまうんじゃないか。東京湾をどうするかっていうのは、これから私たちが海とかまちづくりとかやっていく試練のような、ひとつのサンプルになっているのではないでしょうか。
湯川 おいしいお魚が食べられるということは、水の問題です。出発点は水。いろいろなアイデアがあると思いますが、それは原点に問題があります。足元のところに戻ってきて、じゃあどうすればいいのかと考えると、私なんかは、ここ、このテーブルの上に六甲のおいしい水(ミネラルウォーター)がおいてありますが、こんな話をしながらペットボトルの水を飲んでいること自体がおかしいのです。ここをどうするかは、身近な産業廃水の問題であるとか、農薬の問題であるとか、森林伐採保全の問題であるとか。本当に一番身近なところでは、ゴミの埋め立ての問題、家庭排水の問題。私たちは界面活性剤の中にどれだけリンや窒素が入っているかということを、ささやかに10年間運動してきて、暗澹(あんたん)としています。例えば、スーパーマーケットや薬局に行って、地球のためにいい「エコマークのついたシャンプーだとか石鹸だとかありますか」と一言聞いていただくという運動を展開しています。やってみていただくと少し効果があります。少し水が変わるんじゃないかと思っています。
中村 東京湾を考える時に、個性のあるエリアの東京湾をどうしようという事になるわけですが、いろいろなアングルから水に親しめる我々の東京湾にアプローチしていかなければならないのです。そこで、目の前の東京湾の美味しい魚を食べて、楽しんで、遊ぶことができて、そばにいることに感動ができる。そのために例えば自分は運動家だとか活動家だとかやることも大事です。しかし、住民運動、環境問題の活動としてやるというのはちょっと嫌だな、うさんくさいと思う人もいる。素直に東京湾を楽しもうよ、という気持ちをものすごく大事にしていきたいと思います。
海の中に陸の歴史が秘められて、陸地に海の歴史がある。例えば、歴史だけじゃなくて現在も未来も陸地に、我々の存在そのものにあるんだな、という感じがいたしました。
ありがとうございました。
それでは、本日のイベントのまとめといたしまして、東海大学情報技術センター所長の坂田俊文先生にお話しいただきたいと思います。坂田先生は衛星画像解析の第一人者であり、人工衛星から観測した東京湾の姿などのお話で、東京湾イベントには第一回から参加していただいております。
よろしくお願いいたします。
坂田 今日のシンポジウムの率直な意見を申し上げて、イベント全体のとりまとめをするということですが、結論は違うかもしれません。
実は昨日、世界一周の旅を終え、サンディエゴから帰ってきました。今回の私共の考えた海洋調査旅行は1831年12月に同じ計画が立てられていました。それはイギリス海軍の測量船。その船に乗っていたのがかのダーウィンで、5年間の航海を終えて1936年10月に帰ってきました。これは非常に歴史的な事であり、この5年間に世界中から集めたイギリスの資料、情報は大変なものでした。一番大事な事は「種」を集めたこと。今までそういう事は考えられてませんでした。
そのひとつのきっかけは、1898年に世界の人口が10億人を越えたらどうなるだろうかと心配しはじめ、人口論というのが言われだした頃でした。10億になったら生きていけるのかどうかという事で、沢山の人達が地球の事を考えはじめた。それが今の地球環境問題のようなものです。
実は1800年半ばに人口は10億人を越えてしまいました。さてどうなるだろう。しかし、それに科学技術というものが追いついてきたのです。産業革命によって科学と技術が結びついて、暮らしやすくなってきたことで、ある意味、非常に良い状態が起きてきました。それまで人間は自然と一緒に生きてきた。ところがそこに科学と技術という新しい知識が生まれ、これがずーっとうまくいった。蒸気船が世界中を走るようになる。鉄道が世界中を走るようになるなど、ずうっとうまくいったのです。
そして、今から100年程前の1900年、世界の人口は16億人になりました。100年間で6億人増えたことになります。ところがこの科学技術はとめどもなく走りはじめて、50年たった1950年に25億人になった。50年で9億人増えたのです。
ところが今はどうだろうか。58億人になっている。今世紀末には60億までいくだろうといわれています。桁違いに増えています。1950年から50年間の間に35億人。もっといくと2040年には100億人を越え、2050年には110億人を越えてやっとピークを過ぎて下がるだろうと言われています。
この間、「人類大破局」という本を書いたのですが、こんな気持ちの悪いものっていうことで全然売れない(笑)。皆、嫌なことは聞かない。100億を越えたらどうなるのか。考えてみたら、昔と比べて10倍近い人口です。みんな都合の良いことしか考えず、悪いことを考えない。自分のことだけしか考えない。今、やっぱり悪いことを考えなくちゃならなくなってきたんです。
東京湾の話に戻りますと、これは全体のバランスの問題であるといえます。私は本来、地球観測を仕事としています。陸地といえ海といえ、全部総合で調べます。我々の観測する人工衛星は1周90分から110分で回転し、これにより刻々と変わる水の状態などが分かるのですが、この機械も10年のうちにすごい物になりました。
3日前、スクリップス海洋研究所に行ったとき、これからの研究は海洋調査船と人工衛星との合同でやっていかなければいけないというふうに話していたんですが、そこで、一番恐いことは水の配分です。水位の変動など過去から見ると100〜150メートルの高低差が簡単に見られる。海の研究者というのは、たいがい海のことしか考えていないのですが、地球観測者というのは陸地と海と同時に考えていかなければいけないのです。
さっきも出た水辺の栄養、プランクトンは陸から流れてくる。人工衛星から見ると真ん中が薄いということ、陸の周りと他の所、そういうものが全然違うということがよく分かります。例えば、水を綺麗にしなければいけない。タイのメコン川の水とかコップで我々は飲めません。しかし、そこに住んでいる人達は飲んでいる。皆それぞれそこにいる環境に合っている。生活環境が出来ているといえます。
そこで人間と魚との違いを考えてみると、人間は大気の中で生活して、魚は水の中で生活する。逆であり、全然違います。でも、両方とも酸素を吸う。魚は水の中に溶けている酸素を吸うし、人間は空気として気層の酸素を吸う。しかし魚は人間の祖先なわけですから、そうすると共通点がいっぱいあるということに気づくのです。それぞれの立場から世界を見ている、ふたつの生活習慣の違うものだから、それぞれの生活空間を大事にしていかなくてはなりません。だからこれから皆さんも生きものとして地球の中に生きていくときには、それを考えていかなきければならないのです。
そこで提案したいのは、うまい魚を食べたいというのは贅沢なのではないかという事。食べられるのは魚なんだから、そういう事を考えるのはエゴイズムです。と、このように考えていくと生きてはいけません。しかし、砂漠の民は羊と牛は食べても魚は食べてはいけないとか、ベジタリアンは野菜しか食べないとかいろいろと住み分けして生活しています。
動物が生きていくための条件として、水、酸素、食べ物がいるわけですが、その中で循環が出来ているのです。その循環を壊してはいけない。そういう中で、東京湾はまだまだ恐いことはない。みんなが努力すれば良くなります。今までを維持しようということより、新しい東京湾をつくっていこうということが大切ではないでしょうか。それを無理して壊すと、余計な事をするなと言う。しかし、護岸工事をしなければ道路がなくなったりするわけで、自分の都合のいい時はいいけれど、都合の悪いときは何か文句を言う。これから地球でこれだけの人が生きていくときに、他の動物、生物と上手く生きていくためには新しい生き方を考えなくてはいけません。
このシンポジウムのテーマにもある、美味しいものを食べたいから綺麗にしようなんていうのはけしからん話で、生物が生きていくために新しい生活空間をつくっていかなくてはならない。無駄なことをしないとか。今までの論議を聞いていると、一方的で、人間中心主義すぎると思うわけで、魚の立場からいうと怒り出すんじゃないかと。
1990年にTBS(当時)の秋山さんが宇宙へ行ったとき、沖縄の上空から黒潮と汚染を間違えたが、黒潮の中にたっぷり含まれたプランクトンで我々は生活空間を維持しているのです。プランクトンというのは適宜な形で陸から流れ込んでいるものです。エルニーニョも同じで、その中に含まれるプランクトンはフンボルト海流が南極から上がってきて太平洋の真ん中、赤道の所で混合してアンチョビ(カタクチイワシ)がいっぱいとれるというメカニズムが出来上がっています。それは何百、何千、何万年という時間を経てつくられたリズムであり、そのリズムを大事にしなくてはいけないし、またその生態の生き方を大事にしていかなければいけません。そのためには、多くの人達に海を知ってもらい、海だけではなく陸も知ってもらうということが一番大事だろうと思います。
また、日本では海の研究者が足りません。世界の会議等で海の研究者というと、いつも同じ人が出かけて行くと言います。これからの若い人達には、日本は世界へ海の研究者が出る国だと言うように、是非そうなってもらいたいものです。
最後に人工衛星から見た東京湾の映像をお見せしたいと思います。一秒間に8キロメートル速さでこの東京湾を周って来ます。
以下スライドの説明
写真1 今の東京湾(関東地方全域)
船まで見えている。
写真2 海岸線
幕張から市川にかけて違う色が見えているが、これが昔の海岸線。
写真3 埋め立て地(1983年頃)
羽田空港あたりからもとの海岸線がすーっとのびている。東京湾の変わりはじめた頃。海岸を変えたというよりは土地をつくったという人工的なのがよくわかる。東京湾が狭くなってきたというのがよくわかる。これみんな船です。もとの海岸線がよくわかる。
写真4 東京湾(1993年)
もう元の海岸線が見えなくなっている。東京湾が年々変わっていくのがよくわかったと思う。もう沖合い工事の展開も終わっている。
このような(海岸線の)変わり方によって生活形態も変わってきているし、時によってシーズンによって、非常によく変わっていきます。台風の前後では濁り方も変わるので、こういう汚れたものがどうなるかというのを、ブイ40個と人工衛星を使って調べて見ました。すると、北緯30度から40度の間を波のごとくずーっと流れて、ハワイ沖300キロメートルくらいの所にゴミが集まってくる。全然ゴミが無い所の一万倍の濃度と言われています。このような海の中の流れるゴミをどう集めるかというのも課題となっています。そういうものから色々な物が採集されていますが、コンテナからおもちゃのアヒルが2万羽流れてカナダの沿岸に流れ着いたり、アシックスが2万足やっぱりカナダ沿岸に流れ着いたが、これは足がついてどっか行っちゃったとか(笑)。実はゴミは世界中に流れている。単なる汚れだけではなくて、もっと考えていかなければならないことが沢山出てくるはずです。
是非皆さんには最初の海の日ということで、海についてもっと知識を持っていただいて、海だけではなく、海に陸からどういうことが影響しているか、海に対して人間がどういうことをしているかということを知ってもらいたいと思います。
中村 長い間皆さん熱心にありがとうございました。
これで第三回東京湾イベントを終了したいと思います。これが第四回、第五回と続くことを期待します。
ありがとうございました。